生きることから楽しむことへ ― 2012年07月02日 12:25
(前回の続き)
昔はモノがないのが当たり前の時代であった。その当時は誰もが、モノを持っていなかった。
だから、モノに対する欲望が、今日と比較して、はるかに小さかった。小さいがために、モノはなくても、ココロを満足させることができたのである。
だが、今日はモノが溢れている時代である。この時代はモノをもつことへの限りない欲望が渦巻いている。
これでは、どんなにモノが溢れようと、不安感は募るばかりである。
そのため、ココロはいつも何かを求めている。それが新宗教へとつながっているように思える。
「営業マンと仕事」と言うテーマとは関係ないように思えるが、働くと言うココロと通じていると考えている。
人間はいつの時代でも、働くことによって、金を得て、生活をしている。
働くことは生活の基本である。
「生きることから楽しむことへ」
生活に対する価値観が変化し、生活することはただ生きると言うことだけではなく、生活を楽しむようになってきた。
この楽しみがモノを必要としている。
あるいは、モノがあるから、楽しむようになったと言うべきである。
そして、世の中にモノが溢れた。
それにつれて、モノに対する人間の執着度はますます高くなっていった。
だが、モノが増えれば増えるほど、ココロがどこかに行ってしまうのだ。
そのココロ探しが始まっている。
これは前回に説明した、子供の例とまったく同様である。
ココロ探し ― 2012年07月04日 20:20
第9回 「ココロ探し」(24-7-4)
営業マンが「何のために働いているのか?」と考える時は、それはココロ探しを行っているのだ。
これはモノが溢れているからこそ、考えることなのだ。
それだけ、モノへの執着度が高いことの証である。
モノが溢れている現実があるが、そのために、人間のココロが置き去りにされる。
これは会社人間なら、痛いほどよく分かるだろう。
何故なら、モノを得るために、一生懸命に働けば働くほど、家の中での存在感が失われていくからだ。
たまに、家に帰っても、子供すら相手にしてくれない。
確かに、モノはココロをどこかに押しやったかも知れない。
しかし、今日の状況で、「モノよりもココロが大事だ。」と叫び、「清貧の生活」をするとしても、それはモノに対する執着が少なくなっただけであり、いつもモノを手に入れることができる財がなければ、それはただの「貧乏」である。
「清貧」とは似て、非なるものである。
モノが得られない状況ではモノへの執着はますます強くなり、ココロの存在は忘れ去られてしまう。
この生活状況で、「モノよりもココロだ。」と叫んでも、それは「負け犬の遠吠えであり、自分を惨めにするだけである。
モノがあってこそ、愛する人を幸せにすることができるのだ。
だからこそ、人間は働くのである。
営業マンが「何のために働いているのか?」と考える時は、それはココロ探しを行っているのだ。
これはモノが溢れているからこそ、考えることなのだ。
それだけ、モノへの執着度が高いことの証である。
モノが溢れている現実があるが、そのために、人間のココロが置き去りにされる。
これは会社人間なら、痛いほどよく分かるだろう。
何故なら、モノを得るために、一生懸命に働けば働くほど、家の中での存在感が失われていくからだ。
たまに、家に帰っても、子供すら相手にしてくれない。
確かに、モノはココロをどこかに押しやったかも知れない。
しかし、今日の状況で、「モノよりもココロが大事だ。」と叫び、「清貧の生活」をするとしても、それはモノに対する執着が少なくなっただけであり、いつもモノを手に入れることができる財がなければ、それはただの「貧乏」である。
「清貧」とは似て、非なるものである。
モノが得られない状況ではモノへの執着はますます強くなり、ココロの存在は忘れ去られてしまう。
この生活状況で、「モノよりもココロだ。」と叫んでも、それは「負け犬の遠吠えであり、自分を惨めにするだけである。
モノがあってこそ、愛する人を幸せにすることができるのだ。
だからこそ、人間は働くのである。
自己実現 ― 2012年07月05日 14:18
(前回に続く)
だが、それだけが目的ではない。
営業マンが働くのは自分のためでもある。
働くことに自分の夢や希望を託し、それを実現するために、一生懸命に働いている。
「マイホームを持ちたい。」
「海外旅行をしたい。」
「外車や大型クルーザーを乗り回したい。」
など・・・。
誰にでも、夢や希望がある。だから、働くエネルギーが湧いてくる。
世の中には、「夢も希望もない。」と言う人がいる。一時的なものなら、誰にでもあるだろう。
しかし、それがいつまでも続くのなら、このような人たちは毎日、無気力に生きるしかない。
そして、「人生の落後者」と烙印を押されることになる。
多くの営業マンにはほとんど関係のないことだが、もし、夢も希望も持っていないのなら、すぐにでも持つべきだ。
どんなに小さなことでも構わない。
すぐに達成できることでもよい。
達成したなら、また次の夢や希望を持てばよいのだ。
必ず、働く意欲が出てくる。
人間とはそういうものだ。
そして、働くことによって、生きてきた自分がよりよく生きることができるように、自分自身を高めようとしている。
これが、「自己実現」と言われるものである。
マズローの欲求段階説 ― 2012年07月06日 08:22
(前回に続く)
(2) マズローの欲求段階説
自己実現という言葉は、マズローの「欲求段階説」の中にある。
「自己実現の欲求」は人間の欲求にあるとされる5欲求の中でも最上位に位置するものである。
「自己実現の欲求」を理解するために、他の欲求について簡単に説明する。
まず、5欲求の最下位に位置する欲求は、「生理的欲求」と呼ばれ、「生きていたいという本質的な欲求」である。
この欲求は、「眠りたい」「食べたい」など、人間が生きていく上で、最低限必要な欲求である。
従って、この欲求を満足させるためには、大きなリスクを負うことも恐れない。
例えば、食べるためには金が必要である。
だから、金のためには3K(キツイ、キタナイ、キケン)と言われる仕事でもやるし、罪を犯すこともある。
リスクの存在が、この欲求を満足させる障害とはならない。
人間が生きる以上、この欲求を捨て去ることは難しい。
何故なら、それは即、「死」を意味するからである。
死の恐怖がリスクの存在をゼロにし、リスクの存在が死の恐怖をカバーしていると言える。
この欲求が満足されると、人間は次にその上位にある「安全の欲求」を求めるようになる。
この欲求は「身の安全を守りたい欲求」で、不安定な生活から、安定的な生活を望む欲求である。
危険を承知で求めようとする「本質的な欲求」は、常に死と向かい合わせである。
これは人間にとって、不安定な状態である。
「死」は人間とは切り離せないものであるが、「本質的欲求」が満たされると、表面上は、「死」を意識しない生活を求めるようになる。
「表面上」と言うのは、「死」は人間から絶対になくせるものではないが、それを意識しないということである。
人間は死なない限りは、毎日生きている。
生きていることは死へ、一歩ずつ近づいていることである。
しかし、そう考える人間は少ない。
ほとんど、「死」の意識はなく、ただ「生」を感じているだけである。
人間は死と隣り合わせで生きているのだが、それを意識しないことは安心できる、また安定した生活である。
これは誰もが望む欲求である。
これが、「安全の欲求」である。
社会的欲求 ― 2012年07月07日 22:38
(前回の続き)
「安全の欲求」が満たされると、次に、その上位の欲求である「社会的欲求」を求めるようになる。
この欲求は、「社会の一員になりたいという欲求」であり、「どこかに、所属したい」と言う欲求と言ってよいだろう。
人間は孤独では生きられない。
だから、誰もがどこかに所属している。
所属先は会社や学校、あるいは文化サークルのようなグループなど、種々様々である。
動物の中でも、人間は群れることが好きなようである。
もちろん、今日では、どの社会にも属さない人間は生きていくことは難しいだろう。
それこそ、ロビンソン・クルーソーになる以外にない。
そこまでいかなくても、例えば、社会の一員に属していながらも、孤独感を感じる人間は多い。
仕事をしている間はまだよいが、会社の外へ一歩でも出ると、孤独感が襲ってくる。
一昔前には、「大衆の中の孤独」と言われていた。
常に、大勢の人間が周りにいるのだが、誰ひとり、自分を知る人はおらず、話す相手もいない。
地方から来た若者の中には、この孤独感から逃げ出そうと、夜になると盛り場をうろついたり、コンビニに憩いを求めたりしている。
いや、若者だけではない。
30代・40代の働き盛りの営業マンが猛烈に仕事をする裏では、夜一人で酒を飲む。
話す相手も、気を許す仲間もなく、だからと言って、家族の元に帰るわけでもない。
ただひたすら、一人で酒を飲み、孤独感を味わっている。
このような状態が長く続くようだと、危険である。
人間の持っている「群れたい」気持ちを抑圧しているのだから、それがいつかは爆発することになる。
その時、どこに飛んでいくのか。
誰にも、本人にも分からない。
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