社会的欲求の2 ― 2012年07月08日 21:16
(前回の続き)
いずれにしろ、人間は生きている限り、どこかに所属していかなければ、「人間らしく」生きることは難しい。
「会社人間」と言われようが、「ワーカーホリック」と揶揄されようと、孤独な生活をするよりかは「人間的」であるし、「生きている」と言う実感がある。
だからこそ、会社人間は仕事をすることが快感なのである。
多くの人間は「仕事は嫌だ。」と考えている。
しかし、今日のように、企業倒産が増加し、解雇の増大や採用人数の大幅削減などがあると、「仕事があることの安心感」がよく分かるだろう。
今まで、嫌だと思っていた仕事がなくなり、することが何もなくなったり、会社から放り出された時、仕事をしている時の自分を懐かしく思う。
「ああ、あの時は良かった。」、あるいは「充実していた。」と言う。
その当時には、口に出すことのなかった言葉が出てくる。
人間とは不思議なものだ。
不思議と言うより、「現金」と言い換えるべきか、いや、「状況に敏なる」と言うことかも知れない。
理由はどうであれ、今、「仕事は嫌だ。」と思っている人間は幸せである。
働く場所があるだけでも幸せである。
この幸せを大事にしたいものだ。
「社会的欲求」が満たされると、次にその上位の欲求である「自我の欲求」を求めるようになる。
自我の欲求 ― 2012年07月09日 11:10
(前回の続き)
「社会的欲求」が満たされると、次に、その上位の欲求である「自我の欲求」を求めるようになる。
この欲求は、「他人とは違う自分を認めてもらいたいと言う欲求」であり、自分の存在を他人にアピールしたいと言う気持である。
この世に生を受け、社会の一員となった以上は、「他人に注目される人間になりたい。」と思うのは当然である。
これは「自分の生きている証を、この世に残したい。」と言う気持にもつながる。
人間は年を取れば、それだけ死に近づいていく。
死に近づけば近づくほど、人間として生きている実感を得るものである。
しかし、「自分の死」で、この世が終わることはなく、ただ自分が消えていくだけである。
自分の死後も、この世は何事もなかったように、平穏無事に過ぎていく。
家族さえもが、これまでと同じ生活をしている。
「去る者は日々に疎し」とはよく言ったものだ。
死は一時的には回りの人間に大きな影響を与えるが、次第に記憶の隅に追いやられ、生きている人間は平常に戻っていく。
当たり前の話である。
いつまでも、生きている人間が死に拘っていては、「人間らしく」生きることはできない。
家族といえども、死の側にいるよりは「自分の生」を享受する方が、正しい生き方であるはずだ。
それが分かっていても、否定してしまう。
このことが、人間をより一層不安にする。
「今、ここにこうして生きている自分、この自分が死んだ後にも、存在させておきたい。自分のモニュメントを残しておきたい。」と言う思いが人間の奥底にある。
これを現実化するには、何かをしなければならない。
そのためには、自分が他人とまったく同じ存在ではいけない。
他人と違う自分、その自分が他人に認められること、これが人間の持つ4番目の欲求である、「自我の欲求」である。
自己実現の欲求 ― 2012年07月10日 14:41
(前回からの続き)
「自我の欲求」が満たされると、最上位である「自己実現の欲求」を求めるようになる。
この欲求は「個性を生かし、能力を発揮したい欲求」である。
「自我の欲求」は他人に自分の存在をアピールすることだが、それは他人の目に自分を映しだしたいと言うことである。
そして、それは「いつも誰かに見つめられていたい。」と言う気持である。
しかし、「自己実現の欲求」は他人の目に映る自分の姿を考えるのではなく、自分の目に映る自分の姿を見ることである。
自分のよりよい姿を自分で見つけ出したいとする欲求なのである。
だが、社会を構成する一員としての「自己実現の欲求」は、ただ闇雲に自己実現すればよいというものではない。
自分の回りの人間を満足させることにより、自分が満足していく状態であり、その時に「自己実現の欲求」は満たされるのである。
回りの人間の満足とは「その人間の利益や幸福」であり、それを無視した「自己実現」はあり得ない。
特に、販売の現場では、「自己実現」を達成するには、「相手の満足」(顧客満足)なくしてはありえないことが、すぐに理解できよう。
相手を満足させることなく、「自分の満足」だけを追い求めた結果がバブルであり、それが崩壊したのは、当然のことである。
また、営業マンの「自己実現」は相手の満足(顧客満足)だけではなく、会社の満足なくしてはあり得ない。
会社の満足 ― 2012年07月11日 18:46
(前回の続き)
では、「会社の満足」とは何か?
会社は人格を持たないので、会社自体が満足することはない。
と言うことは、会社の満足とは即ち「社長の満足」、あるいは「上司の満足」と言える。
だが、満足度は個人差が大きいので、会社の満足と一口に言っても、その範囲はかなり広い。
ある会社にとって(それは、ある社長や上司にとって)は満足であっても、ある会社(ある社長や上司)にとっては、まったく反対の不満足の場合も往々にしてある。
また、逆の場合もある。
さらに、厄介なことは、会社の満足が特定の個人一人ではないと言うことである。
特に、大企業となると、何人もの人間がおり、その満足度が異なるのである。
と言うことは、例えば、直属の上司は高い満足度を示したとしても、その上の上司はそれほどでもなく、さらに上の上司は不満を表すことも珍しくない。
これが対個人の満足と異なるところである。
こうなると、会社の満足を絶対的な立場で判断できる基準が必要となる。
そうでなければ、誰を満足させれば、それが会社の満足につながるのか分からず、無駄な努力をしなければならないからだ。
これは営業マンにとっても無駄だが、会社全体でも大きな無駄であり、損失である。
そのため、会社としても、何らかの基準があった方がよいということになる。
会社の満足=利益か ― 2012年07月19日 07:41
(前回の続き)
そこで、会社の満足を具体的に考えていくと、「利益」がある。
この「利益」という基準を使うと、会社の満足が社長の満足であっても、上司の満足であっても、利益貢献度の大きい営業マンは良い評価を受けることになる。
それが営業マンの自己実現の達成度になると言える。
売上を増大させ、会社に大きな利益をもたらす営業マンほど、会社の満足度は高くなる。
このため、営業マンは会社の満足度を高めるため、自己を犠牲にして、働くのである。
ところが、そのような自己実現を目指していたある日、自分が崩壊への道を突き進んでいることを自覚する。
なぜ、崩壊への道を辿ることになったのか。
その理由は、会社の満足度を高めるために、会社が相手とする「顧客の満足」を考慮していなかったからである。
このことに目覚めたとき、「会社の満足」は「大いなる不満足」に変化していった。
「顧客満足」(CS)が叫ばれて久しい。
この動きを理解せず、ただ会社のために一生懸命尽くすだけでは、営業マンとして生き残ることはできないし、会社の組織人として存在することも許されない。
このように考えると、営業マンにとっての「自己実現」は、次の三要素から成り立っていることが分かる。
・自分の満足
・相手の満足(顧客の満足)
・会社の満足(社長、上司)
この三要素をすべて実現することが必要なのである。
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