モノとココロ ― 2012年06月28日 20:52
(前回の続き)
満足感があって初めて、ココロの問題となる。
「いや、それは違う。」
と言う人達がいる。
昔はモノがなかった。今日と比較にならないほど、何もなかった。
子供にはゲーム機もなければ、電子手帳もない。
しかし、昔の子供の方が毎日、充実していたし、大人も幸福感を味わっていた。
「昔は良かった。」
と、年老いた人たちが言う。
その言葉の背景には、ココロの問題があるように思える。
人間関係にしても、幸福感にしても、モノがあるから充足されるのではなく、ココロが喜びを感じることができる何かがあった。
それは、「モノがない。」ことであったと思う。
モノの豊富感はココロの感動を薄める働きをする。
それが現在の若者や子供に象徴されている。
例えば、今の若者は子供の時からモノに囲まれて育ってきた。
だが、ココロはほとんど満たされていない。
一方、昔の子供は、モノはなかったが、ココロの飢餓感がなかった。
だが、一つ大事なことを見落としている。
それは、その当時と今日の状況との隔たりである。
満足感があって初めて、ココロの問題となる。
「いや、それは違う。」
と言う人達がいる。
昔はモノがなかった。今日と比較にならないほど、何もなかった。
子供にはゲーム機もなければ、電子手帳もない。
しかし、昔の子供の方が毎日、充実していたし、大人も幸福感を味わっていた。
「昔は良かった。」
と、年老いた人たちが言う。
その言葉の背景には、ココロの問題があるように思える。
人間関係にしても、幸福感にしても、モノがあるから充足されるのではなく、ココロが喜びを感じることができる何かがあった。
それは、「モノがない。」ことであったと思う。
モノの豊富感はココロの感動を薄める働きをする。
それが現在の若者や子供に象徴されている。
例えば、今の若者は子供の時からモノに囲まれて育ってきた。
だが、ココロはほとんど満たされていない。
一方、昔の子供は、モノはなかったが、ココロの飢餓感がなかった。
だが、一つ大事なことを見落としている。
それは、その当時と今日の状況との隔たりである。
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://rashinban.asablo.jp/blog/2012/06/28/6494344/tb
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。